輝くライフスタイルを応援する
No.141 Winter.2021
私にしかできないライブを
これからもやり続けたい。
歌手
森高 千里さん
『ポカリスエット』のイメージガール・コンテストで優勝し、芸能界デビュー。アイドル全盛時代のさなか、自分らしさを求めて試行錯誤を重ねた森高さん。歌や作詞、衣装による独自の世界観を創り上げ、ファンの熱狂的な支持を得た。結婚・出産を経て、デビュー25周年を機に活動を再開。今も多くのファンを魅了してやまない森高千里さんに、お話を伺った。
取材・文/吉田燿子 撮影/齋藤久夫
スタイリスト/宇賀 愛 ヘアメイク/渡辺真由(GON .)
試行錯誤を重ねた末に不動の人気を獲得
――熊本でのびのびと育ち、3歳上の兄の後をついて野山を駆け回った。好きな遊びは、川での魚捕りやキャッチボール。負けず嫌いで、やり始めたら必死で頑張る。そんな森高さんが音楽と出合ったのは、3歳の時のことだ。
母にピアノを買ってもらって習い始めたのですが、弾き始めたらすごく楽しくて。子供も好きだったので、将来は音大に進学し、ピアノの先生になりたいと思っていました。女子高時代はバンドでドラムを担当し、レベッカやZELDAの曲を演奏していました。
ところが高2の時、友達に誘われて、『ポカリスエット』のイメージガール・コンテストに応募することになったんです。友達の家のお隣さんが大塚製薬の方で、「オーディションを受ける人を探してきて」と頼まれたらしくて。「一緒に受けるなら、いいよ」と軽い気持ちで言ったのですが、まさか受かるとは思いもしませんでした。忘れた頃に「一次審査を通過した」という連絡が来て、本当にビックリしましたね。九州大会、東京の本大会へと進み、なんと優勝してしまったんです。
このコンテストでは、優勝すると、女優として映画に出演し、その主題歌で歌手デビューすることも決まっていました。周囲の期待に応えようと必死でしたが、最初はなかなかうまくいかなくて。
オーディションに合格したとはいえ、歌がうまいわけでも、演技ができるわけでもない。そんなところからのスタートでしたから、すぐにはヒット曲も出なかった。歌手としての自分をどうアピールしていけばいいのかと、随分と試行錯誤を重ねました。
当初「アイドル」ではなく「アーティスト」として売っていこう、というレコード会社の戦略があったんです。衣装もGジャンに穴が開いたジーパン、みたいな感じだったのですが、あまりイメージとして浸透しなかったこともあって、ステージではだんだんと派手な衣装を着るようになりました。私は子供の頃からピンク・レディーが大好きで、キラキラしたミニスカートの衣装に憧れていたんです。
転機となったのは、7枚目のシングル『17才』のヒットでした。衣装と曲のイメージもピッタリで、そこから「森高千里=ミニスカート」というイメージが定着していったように思います。
―――森高さんが、スタッフの勧めで作詞を手がけ始めたのは、2枚目のアルバム『ミーハー』の制作がきっかけだ。初めて作詞をした森高さんが書いた独特な歌詞は、一躍世間の注目を集め、新たなファン層を開拓。その人気を不動のものとしていく。
デビュー当初は歌もうまくは歌えず、自分らしさを表現することができませんでした。もっとアピールしないと、「森高千里」という存在を皆さんに知ってもらえない。そう思っていた時、スタッフから作詞を勧められたんです。歌詞を書いた経験などないけれど、書かせてもらえるならチャレンジしてみたい! そう思って初めて作詞したのが、『ザ・ミーハー』というアルバムのタイトル曲でした。
でも、特に「こういう歌詞が書きたい」という思いがあったわけではないんです。作詞の勉強をしたこともなかったので、自分が思った事や感じた事を自分の言葉で書きました。それが変わっているかどうかは、自分では解らなかったのですが、でも、それを面白がってくれるスタッフがいたんですね。何も知らなかったからこそできたことなのかな、と今では思っています。
またツアーができる日までなんとか踏ん張りたい
――――1999年に俳優の江口洋介さんと結婚。音楽活動を休止し、一男一女の母として子育てに専念した。子育てが一段落した2012年に音楽活動を再開。3年がかりで自分の楽曲200曲をセルフカバーし、映像をYouTubeに配信した。
結婚と同時に活動を休止したのは、子供が生まれた以上は「子供を育てる」ことに集中するのが自分の役目だと思っていたからです。他に選択肢はなかったですね。子育てって「これで終わり」という線がないですから。自分が楽しみながらも必死に子育てしていたら、いつの間にか月日が経っていた、という感じです。
200曲のセルフカバーにチャレンジしたのは、そんな無謀なことに挑戦した人が、まだ誰もいなかったから。なかなか撮影が終わらず、「こんなこと始めなきゃよかった」と思った時期もあります。でも、過去の曲の中には、ライブであまり歌ったことのない曲や、当時はあまりうまく歌えなかった曲もある。「こんなにいい曲だったんだ」と再認識した曲もたくさんありました。
昔はよく理解できなかった歌詞の内容も、今ならもっとよく理解できるし、以前よりもしっかり歌うことができる。おかげで、自分の曲に一層愛着が湧いてきましたし、その意味では、セルフカバーをやって本当によかったと思いますね。YouTubeに配信したのは、ずっと応援して下さっているファンはもちろん、森高千里をよく知らない幅広い年代の人たちにも見ていただけるから。動画がきっかけで、若い世代の方がコンサートにも足を運んで下さるかもしれない。その意味で、YouTubeのような動画配信は、新しい形で自分自身を発信できる場所かもしれないな、と感じています。
――2017年にデビュー30周年を迎えた森高さん。19年には21年ぶりに全国ツアーを敢行し、好評を博した。2020年も全国ツアーを予定していたが、新型コロナウイルスの感染拡大で中止。ファンの期待に応えるため、オンラインでのライブ配信を行った。
音楽活動を再開するにあたってまず考えたのは、「また、ライブがやりたい!」ということでした。元々大好きでしたし、レコーディングも、ライブがやりたいからやっているようなもの。会場で歌いたい曲や盛り上がれる曲をつくりたい、という思いは常にありました。ライブというのは、場所によって雰囲気も違いますし、お客様の感じも全然違います。その場その場で、ファンの方たちと一緒に創り上げていく、その感覚が大好きなんです。
十数年のブランクがあったにもかかわらず、 こうしてステージに立っていられるのは、ファンの皆さんが応援してくださるからこそ。その方たちに楽しんでいただくためにも、私にしかできないライブをやり続けたい。自分が楽しんでやれる間はお客様も楽しんでくださると思うので、ライブで歌っていたいな、と思います。
――仕事と家庭を両立させ、充実した日々を送っている森高さん。自然体でありながらもそのパワーと魅力は、50代になっても一向に衰えないどころか、さらに輝きを増したように見える。前を向き挑戦し続ける、その原動力とは。
私は、経験のないことにチャレンジするのが好きなんです。やってみないとわからないことって、たくさんあるじゃないですか。「やりたかったのにできなかった」と嘆くより、「やってみたけどダメだった」という方が、後悔しないような気がしますから。今、一番やりたいのは全国ツアー。コロナ禍が収息してツアーができる日まで、なんとか踏ん張りたいですね。
今は家の中にいることが増えましたが、家では常に動き回っていますね。例えば、「台所の家事の合間に洗濯をして」という具合に。ちょこちょこ動いているのが性に合っているみたいです。
そして私の元気の素は、「好きなものを見つけて、それを実際にやってみること」。この記事を読んで下さっている皆さんにも、ぜひそういうものを見つけていただきたいですね。「もう歳だから」などと言わず、いろいろなことにチャレンジして―。よかったら私のコンサートにいらして、一緒に楽しんでいただけたらうれしいです。
Profile
もりたか・ちさと
1969年熊本生まれ。86年大塚製薬「第1回ポカリスエット・イメージガール・コンテスト」でグランプリ受賞。87年映画『あいつに恋して』にヒロイン役で出演、主題歌『NEW SEASON』で歌手デビュー。『17才』『私がオバさんになっても』『渡良瀬橋』などヒット曲多数。99年結婚、一男一女の母。2012年デビュー25周年でライブ再開。
Information
2019年の全国ツアー『「この街」TOUR2019』(2019 年12 月8日熊本城ホール)
DVD&Blu-ray、ツアーで訪れた36カ所の街を歩いたフォトエッセー、集英社『森高千里「この街」が大好きよ』発売。
レギュラー
フジテレビ系 「Love music」 司会
毎週日曜日 24:30~(2015年10月~)
ニッポン放送 森高千里の「オールナイトニッポンMUSIC10」
第2水曜日 22:00~24:00(2020年4月~)