輝くライフスタイルを応援する
No.144 Autumn.2021
魂がこもったプレーで
世界に立ち向かう
東芝ブレイブルーパス東京
リーチ マイケル選手
日本ラグビー界に数々の歴史を作ってきた東芝ブレイブルーパス東京のリーチ マイケル選手。2015年ラグビーワールドカップでは強豪南アフリカを破って「ブライトンの奇跡」を生み、19年にはベスト8という大躍進を成し遂げて、日本ラグビーの歴史を動かした。
15歳で日本にやってきた少年が、いかにラグビーと向き合ってきたのか伺った。
取材・文/中城邦子 撮影/齋藤久夫
―――2019年ラグビーワールドカップ、スコットランド戦。観衆6万7666人。地鳴りのような「リーチ」コールがスタジアムを包んだ。今や「日本代表の顔」となったリーチマイケル選手が、母国ニュージーランドでラグビーを始めたのは5歳の時だ。
幼いころからラグビーに夢中で、高校もラグビーが盛んな学校を選びました。その高校に日本からラグビー留学生が来ていたのです。学校が夏休みになると寮が閉まるので、留学生はあちこちのファミリーの家でホームステイをします。僕の家にも、日本からの留学生が泊まることになって、トータルで10人ぐらいが来ました。
当初、日本にラグビーがあることも知らなかったのですが、留学生の人たちが本当に上手でびっくりしましたね。ちょうどわが家はリフォーム中で、2階は壁がない状態だったのですが、ビリヤードテーブルを置いてみんなで遊んだり、ベッドを並べて一緒に寝たり、すごく楽しかった。その仲間たちとは今も連絡をとり合っています。
―――この出会いから日本に憧れをもち、北海道の札幌山の手高校への交換留学生に応募した。外国語必修科目で日本語を学んではいたが、実際に来てみると驚くことも多かった。
授業で一番驚いたのは、どの科目も先生が教室に来てくれることです。ニュージーランドでは、科目ごとに生徒が移動するので、ずっと同じ席に座っていることに慣れるまでは苦痛でした(笑)。また、ラグビー部では練習量が多くて驚きましたね。全国高校選抜ラグビーフットボール大会(花園)に出場した時は、他校の留学生たちは、みんな体が大きくて強いのに、僕は全然戦力にならなかった。申し訳ない、恥ずかしい思いで札幌に帰ったことを覚えています。
それでも先生たちは当時から、「いずれ日本を代表する選手になる」と言ってくれていました。たぶん、向上心の強さを見てくれていたのだと思います。僕自身弱いことを自覚していたので、毎日学校近くの三角山まで走って、チーム練習以外にも自分なりに工夫した。それにたくさん食べましたしね。日本に来た時は細くて178㎝78㎏しかなかったけれど、卒業までに20㎏増やしたんですよ。
今の自分を作ってくれたみんなに恩返しをしたい
進学先は、教職課程がある東海大学を選びました。将来、札幌山の手高校に戻って体育の先生になるという夢をもっていたのです。すごくお世話になった学校だから、何かしらの形で恩返しをしたくて、僕にできるとしたら体育の先生だなと。ただ教職課程の授業は出席必須で、大学3年生になると、どう頑張っても代表の合宿や海外遠征との調整がつかなくなりました。
初めてキャプテンを任されたのは08年に世界ジュニア選手権のU 20の日本代表に招集された時です。初顔合わせの全体ミーティングが始まる10分前に、U20の薫田真広監督から「お前がキャプテンだから」と突然言われました。何を言ったらいいのか分からないまま挨拶をして、合宿や大会中もキャプテンを務めることの大変さを実感した。あの時は二度とキャプテンはやらないと思いましたね。
―――ラグビーは世界共通のルールで、その国で生まれたか、祖父母・両親の誰かが生まれているか、直近の36カ月間住んでいるかのいずれかを満たすことが代表の条件。リーチ選手は出身のニュージーランドや、母の母国フィジーの代表になる資格があったが、日本代表を選び、14年にはエディー・ジョーンズ監督から日本代表キャプテンに指名される。
日本代表を選んだことに後悔は一切ないです。ここまで成長できたのは日本のおかげと思っていたから恩返しをしようと思いました。ただキャプテンを受けるかどうかは、本当に悩んだ。「エディーがあなたを選んだのなら、やるしかない。やるべきだ」と言ってくれたのが、同じく代表の堀江翔太さんです。それで決心がつきました。
当時、日本代表はワールドカップで1991年の1勝を最後に一度も勝っていませんでした。接触プレーが多く体格差が大きくものをいうラグビーでは、番狂わせはまず起きないと言われている。
今までと同じことをやっていたら同じ結果しかない。エディーさんという優れた指導者が日本の可能性を信じて、死にそうになるぐらいの練習を組み立てて選手にやらせた。外国人チームには勝てないという思い込みをどんどん変えていった。その結果、2015年ワールドカップで南アフリカ戦に勝って3勝しました。
勝ったことで僕たち選手も、やってきたことは正しかったと自信がついた。ジェイミー・ジョセフ監督に代わってさらに成長できて、19年のワールドカップでベスト8という結果が出せたのだと思っています。
―――19年の日本代表メンバーは31人中15人が海外出身選手だった。国籍や民族が違う選手が代表として「ONE TEAM」になるために、リーチ選手はキャプテンとして心を砕いた。
日本代表であることを常に認識することを一番重要視しました。そこはぶれちゃいけない。プレーだけでなく普段の生活でもです。
よくあるのは、外国からコーチが来て、日本文化を分からないまま、上下関係をなくそうとか言う。でもそんなことをしたらチームは崩壊します。挨拶や礼儀、時間を守るなどの日本の文化や習慣も共有して、日本代表としての行動をとることは特に大事なことです。
プライドと覚悟を胸にONE TEAMで戦う
もう一つ大事なことが、愛国心をどうやって高めるかでした。そのために、日本の歴史や文化をチームにプレゼンしました。優れた文化をもっていた日本が、海外との交流でさらに飛躍した歴史をストーリー仕立てにして、自分たちに落とし込んだのです。
ラグビーは痛みと献身のスポーツです。後ろから味方が来てくれることを信じて、自分より体のでかい相手に向かっていく。そのためには相当の覚悟が必要です。体格で劣ってもハートが入った時の強さは、日本は世界中のアスリートで一番優れていると思います。だから、日本の歴史や文化を知って、代表であることにプライドをもってハートのあるプレーをする。それが僕の目指したことです。
―――ラグビーでは、監督はスタンドで試合を見守り、レフェリーとのやりとりや試合中のプレーの選択はすべてキャプテンに任される。その果たす役割は大きい。リーダーには何が求められるのか。
重要なことはいくつかあります。一つは、リーダーが自分以外にリーダーグループを作ることです。自分で考える人、責任を渡した時にちゃんと果たせる人を育てることです。ケガや不調でキャプテンが戦列を離れることもあります。ひとりのリーダーが不在になったら機能しなくなるチームではラグビーの試合はできません。
もう一つは、監督などトップの考えをしっかりと理解し、疑問があれば意見をぶつけてバトルし、納得した上でチームに落とし込むことです。リーダーグループや選手に迷いがないシステムを作っていくことがキャプテンの仕事です。そして、グラウンドのパフォーマンスでチームを引っ張ることが一番重要。そのバランスが難しいですね。僕は今まさにそこで苦労しています。パフォーマンスができていない。実はコロナ禍の間に、これまでに痛めていた6カ所を次々に手術したので、走れるようになるまでに5カ月かかりました。
―――国内では新リーグがスタート、23年にはフランスでワールドカップが行われる。
ラグビー選手としては年齢が高くなってきていますので、それを言い訳にせずにもう一回自分にフォーカスを当て、コンディションを上げてこの東芝ブレイブルーパス東京で優勝を目指します。代表に関しても全く同じです。経験で呼ばれるのではなくプレーヤーとして選ばれること。もう一度強いチーム作って、社会に大きなインパクトを与えたいと思います。
Profile
リーチ マイケル
1988年、ニュージーランド(NZ)生まれ。NZ人の父とフィジー人の母をもつ。15歳の時に留学生として来日。札幌山の手高等学校から東海大学に進学。2011年に東芝ブレイブルーパス東京へ入団。08年、20歳で日本代表デビュー。13年、日本国籍を取得。ラグビーW杯には3大会連続で出場し、15年、19年大会では日本代表主将を務めた。ポジションはFL(フランカー)、No.8。
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