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No.126 Winter.2017

「生涯一捕手」としてひとすじの道を歩いてきた

野球評論家

野村 克也さん

稀代の名キャッチャーとして、日本プロ野球史にその名を刻んだ野村克也さん。
現役引退後も、「ID野球」を掲げた球界屈指の名将として、また「野村スコープ」を生み出した野球評論家として、常に第一線で活躍し続けてきました。
テスト生としてプロ入りした野村さんは、いかにして球界の至宝となったのか。その道筋を辿ります。

取材・文/吉田耀子 撮影/神ノ川智早


3歳で父を亡くし、母は小学2年・3年の時に子宮がんと直腸がんを発症。兄と2人、新聞配達やアイスキャンデー売り、子守のアルバイトをしながら家計を支えた。貧困から脱し、母に楽をさせたいという思い。少年時代に培ったハングリー精神は、後の野球人生を支える原動力となっていく。

子供の頃はとにかく貧しくて、「どうしたら金持ちになれるか」と、そればかり考えていましたね。小学校5年の頃、2歳年下の美空ひばりが電撃的にデビューし、天才少女歌手として一世を風靡するのを見て、「歌手になろう」と決めました。さっそく音楽部に入って歌を練習し始めたものの、高音域がどうしても出ない。歌手になる夢はあきらめ、次に目指したのが映画俳優でした。映画『君の名は』が大ヒットしていて、鏡の前で、主役の佐田啓二の演技を真似てみたりもしましたが、当時は「映画俳優=男前」という固定観念がありましたから、「この顔じゃ無理だわ」と我に返り、映画俳優の夢もあきらめました。

後になって、その話を仲代達矢さんにしたことがあります。すると仲代さん、あの大きな目玉を見開いてこう言いました。「野村さんなら、志村喬のような俳優になれたはず。野村さんが俳優にならなかったのは映画界の損失です」と。うれしかったですねえ。

入団4年目で“キャッチャー恐怖症”に

歌手と映画俳優の夢破れた克也少年が、次に目指したのが「プロ野球選手」だった。中学2年で野球部に入部すると、メキメキと頭角を現し、高校では3番・捕手として活躍。卒業後は南海ホークスにテスト生として入団した。

入団当初は2軍でブルペン捕手しかやらせてもらえず、打撃練習が全くできない日もありました。でも、打撃がよくなければ、プロ野球選手として生き残ることはできない。練習が終わった後も、毎晩、合宿所で素振りを続けました。球団には捕手が大勢いるから、レギュラーの座を勝ち取るためにはライバルに勝たなければならない。「どうしたら1軍に上がれるか」と、24時間そればかり考えていましたね。

その甲斐あって、入団3年目に念願の1軍入り。喜んだのも束の間、4年目に〝キャッチャー恐怖症〟にかかってしまったんです。野球の試合はキャッチャーのサイン一つで決まる。どんなサインを出せばいいのかわからなくなり、怖くて指が動かなくなっちゃったんですね。それで、監督に「チームに迷惑をかけるから、もうキャッチャーはできません」と申し出た。監督の指示で外野の守備についたんですが、外野と本塁では、見える〝景色〟がまるで違う。キャッチャーとは扇の要であり、頭脳を使って試合の主導権を握る存在なのだと気づかされました。僕がヤクルトの監督を任された時、キャッチャー重視のチーム作りをしたのもそのためです。

生涯の師と仰ぐ草柳大蔵さんとの出会い

入団3年目にレギュラーを勝ち取り、正捕手の座に。そのリーダーシップが買われ、34歳で南海ホークスの選手兼監督に就任した。バッターとしても通算2901安打、657本塁打、戦後初の三冠王など数々の輝かしい成績を残した。45歳の時、ついに現役引退の日を迎える。

テスト生として入団した自分が監督になれるなんて想像もしていなかった。むしろ、引退後は誰にも負けない野球評論家になってやろうと思いました。当時のテレビの野球解説は、印象先行で、本当にいい加減なものが多かったからです。

とはいえ、どうしたら野球評論家になれるかがわからない。女房に相談すると、「いい人がいるわよ」と紹介してくれたのが、評論家の故・草柳大蔵さんでした。

僕が草柳さんに一番聞きたかったのは「評論家って何ですか」ということ。すると草柳さんはこう答えました。「評論家というのは、野球でいえば審判でしょうね。物事の是非や真偽について、自分で判定を下すのが評論家。遠慮することはありません。どう思うかは受け手に任せればいいんです」なるほどなあ、と思いました。それから、「本を読みなさい」とも言われましたね。2階の書斎に上げてもらい、渡されたのが哲学者・安岡正篤さんの本。「辞書を引きながらじっくり読みなさい。この本は評論家としての基本になるから」って。それ以来、草柳さんのところで話を聞くのが楽しくてね。あんなに頭がいい人には会ったことがありません。草柳さんに引き会わせてくれたのは、女房のファインプレー。だから、僕は女房には頭が上がらないんです。



現役引退後はテレビやラジオの野球解説者・野球評論家として活躍。なかでも「ノムさんのクール解説」としてファンを唸らせたのが、テレビ朝日の「野村スコープ」だった。これは、ストライクゾーンを9分割し、配球や打者・投手の心理を解説するというもの。評論家として野球を客観的に分析した9年間の経験は、後の「ID野球」に結実することとなる。

野球評論家となって8年が過ぎた頃、ヤクルト球団の社長が、突然、わが家を訪ねて来ました。「野村さんの野球解説を聞いたり論評を読んだりして感心していました。ぜひ、ヤクルトの監督をやっていただきたい」と言うんです。驚きましたね。まさか監督就任を要請されるとは思っていませんでしたから。「一生懸命仕事をしていれば、必ず見てくれている人がいるんだなあ」と思いました。人生は他人の評価で決まる。だからこそ、どんな時も最高の仕事をしなければならない――処世術ができない僕にとっては、今も大切な人生訓です。

今は名キャッチャー不在の時代

ヤクルト監督就任後、データに基づく「ID野球」を実践し、4度のリーグ制覇と3度の日本シリーズ制覇を達成。プロ野球の第一線から退いた後も、野球論から組織論・人材育成に至るまで、幅広い評論活動を行っている。「生涯一捕手」として磨き上げた知識と経験が、その活躍のベースとなったことはいうまでもない。

今は「名キャッチャー不在の時代」。そういう時代が来ることを、僕は10年前に予見していました。

現役引退後、「港東ムース」という少年野球チームを指導していたんですが、「キャッチャーをやりたい」という子供が一人もいないんです。「どうしてキャッチャーは嫌なんだ」と聞くと、「立ったり座ったりがしんどい」と言うんですね。がくぜんとさせられました。今の子供はつらいことを避け、楽していい思いをしようとする。これでは、いいキャッチャーが育つはずもない。そうなれば、日本のプロ野球のレベル低下は避けられません。

以前、巨人V9時代の正捕手で元西武ライオンズ監督の森祇晶さんと、こんな話をしたことがあります。「今はあまりにもキャッチャーが軽視されている。キャッチャーというポジションの重要性を一緒にPRしていこう」と。

キャッチャーというのは本当に大変な仕事です。1球ごとに頭を絞って投手にサインを出し、野球というドラマの筋書きを書くわけですから。

ところが、今の監督はバッティング優先で、捕手としてどんなに優秀でも、ヒットが打てなければ使ってもらえない。それは捕手というポジションの重要性を理解していない証拠です。頭脳労働者である捕手のファインプレーは目に見えない。だからこそ、本当に野球をよく知っている目利きでなければ、キャッチャーを正しく評価することはできないのです。そういう監督は、残念ながら今の日本のプロ野球には見当たりません。

名捕手とは、個性の違うピッチャーの力を存分に引き出し、試合を俯瞰して脚本を書ける人間のことです。したがって、キャッチャーは頭がよくないと務まらないでしょうね。この場合、「頭がいい」とは「応用力がある」ということです。優れたキャッチャーは、鋭い感性でピッチャーやバッターの心の動きを読みとり、それを配球に生かして、試合の主導権を握ることができる。野球は1球ごとに状況が変わるスポーツですから、感性や応用力が優れた捕手でなければ、脚本家としての役割を果たすことはできません。

「優勝チームに名捕手あり」というのが私の持論です。黒子であり縁の下の力持ちである捕手型人間が、土台を支えている組織は強い。強い組織を作れるかどうかは、捕手型の人材をいかに育成し、正しく評価できるかどうかで決まります。それは野球に限らず、すべての組織作りにおいていえることではないでしょうか。

Profile

のむら かつや
1935年京都府生まれ。京都府立峰山高校卒業。南海ホークス(現ソフトバンクホークス)にテスト生で入団し、3年目から正捕手。首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回、ベストナイン19回、MVP5回、ダイヤモンドグラブ賞1回、65年戦後初の三冠王。70年選手兼任で監督に就任。73年パ・リーグ優勝、後にロッテ・オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)、西武ライオンズ。80年45歳で現役引退。90~98年ヤクルトスワローズ監督、リーグ優勝4回(日本シリーズ優勝3回)。99~2001年阪神タイガース監督。06~09年東北楽天ゴールデンイーグルス監督。現在は野球評論家。著書多数。

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