輝くライフスタイルを応援する

No.122 Winter.2016

〝物語〟に魅せられて ニュースの世界で生きてきた

ニュースの職人

鳥越 俊太郎さん

メディアの世界を縦横無尽に駆け回り、〝ニュースの職人〟として活躍する鳥越俊太郎さん。
新聞、雑誌、テレビと舞台は変わっても、持ち前の人間力をいかんなく発揮し、ニュースの裏側に潜む人間の「物語」を伝え続けてきました。
75歳になった今も尽きることのない、その活力の秘密に迫ります。

取材・文/吉田燿子 撮影/尾嶝太


京都大学文学部を卒業後、毎日新聞社に入社。それが〝ニュースの職人〟としての人生の幕開けだった。
だが、けっしてエリートコースを歩んだわけではない。大学に7年間在籍し、中退スレスレで就活を開始。新聞社の試験を受けたのも、「成績不問、年齢にも寛容」という〝好条件〟に惹かれてのことだった。

僕は「新聞記者になりたい」と思ったことは一度もないんです。入社後は新潟支局に配属されましたが、優秀な記者ではなく、上から言われるままに動いていました。社会部に異動してもちゃんとした仕事は与えられず、本当に端っこを歩いていた。僕が記者として注目されるようになったのは、30代で週刊誌の編集部に異動したのがきっかけです。

週刊誌への異動を機にスクープを連発

1976年2月、ロッキード事件が発生。僕は東京社会部で、国税庁担当の助っ人として走り回っていました。そんなある日、『サンデー毎日』編集長になったばかりの大先輩から、「サンデー(毎日)に来ぃへんか」と誘われたんです。

『サンデー毎日』で最初に書いたのが、田中角栄についての連載記事でした。田中角栄はロッキード事件で逮捕されたにもかかわらず、地元には大勢の支持者がいる。なぜ、田中角栄は地元でこんなに人気があるのか。その秘密を知るためには、彼の生まれ故郷に住み込み、地元の人と話をする必要があると考えました。そこで、新潟県刈羽郡西山町(現・柏崎市)に50日間住み込み、現地取材を始めたところ、今まで全く見えなかったことが見えてきたのです。日本海側の町や村は明治以来の発展から取り残され、置き去りにされてきた。新潟の町は夜になると真っ暗で、舗装されていない道路は雪が降ると車が通れなくなる。田中角栄という政治家はこういう風土の中で生まれたんだなと肌で感じ、「彼が支持される本当の理由はそこにある」と記事に書きました。

それから『サンデー毎日』でスクープを連発し、次第に業界で名前が知られるようになったのです。



41歳の時、アメリカ郊外新聞協会のインターンシップ・プログラムに応募し、ペンシルバニア州『クエーカータウン・フリープレス』紙に職場留学。1年間、英語と本場のジャーナリズムを学んだ。

30代後半あたりから、「俺は一体、何をしているんだろう」と疑問を感じるようになりました。当時の毎日新聞社は55歳定年制。「このままでは、あっという間に定年になってしまう。うかうかしておれんなあ」と思い、とりあえず英語の勉強を始めました。でも、なかなか思うようにいかない。そんな矢先に、毎日新聞の夕刊で、『米国郊外新聞協会で実習生募集』という小さな記事を見つけたのです。

アメリカに行ってみて、新聞というメディアの層の厚みを実感させられました。アメリカではどんな田舎町にもちゃんとした新聞があり、人々の生活に深く入り込んでいる。「納税者に代わって税金の使われ方をチェックする」ことが新聞の使命だという信念があるから、権力者に対しては基本的に厳しい。9・11の後、アメリカでも愛国主義の嵐が吹き荒れ、メディアが政府を批判できない空気があったことは事実です。でも、それはあくまで一時的なものにすぎませんでした。一方、日本はどうかといえば、今ではメディアが納税者に代わって権力をチェックするどころか、政府がメディアを監視、干渉するようになっている。それは嘆かわしいことだと思います。

調査報道の真髄を示した「桶川ストーカー殺人事件」

帰国後、人生の歯車は加速度をつけて回り始める。外信部へ異動し、テヘラン特派員としてイラン・イラク戦争の戦場報道も経験。その後、『サンデー毎日』編集長を経て、49歳の時に毎日新聞社を退社。テレビ朝日の報道番組『ザ・スクープ』のキャスターに就任した。

僕は、50歳になったら会社は辞めるつもりだったんです。新聞社に居続けたら、いずれは現場を離れてしまう。管理職になって給料をもらうことに何の意味があるのか。現場で起きていることに首を突っ込む方が、ずっと面白いと思っていましたから。

なぜかというと、やっぱり〝物語〟が好きなんです。小学生の頃、貸本屋から講談本の「真田十勇士」や「猿飛佐助」を借りて読みふけり、中学になるとバルザックやスタンダールを読むようになった。漫画も好きで、今もビッグコミック系の漫画雑誌はすべて読んでいます。要するに、僕はニュースが含む〝物語〟に魅せられているんですね。取材をしていて一番ときめくのは、思いがけない真実に出合った時。「真実はこうだったんだ」と知った瞬間の喜びが、僕の原動力になっているんです。

真実を追求するその姿勢は、数多くのスクープを生み出した。なかでも〝ニュースの職人〟としての名を世に轟かせたのが、「桶川ストーカー殺人事件」である。この事件で、鳥越さんはメディアの大勢に抗して独自取材を展開。警察の怠慢を明らかにした調査報道は高く評価され、2001年の「日本記者クラブ賞」に輝いた。

桶川の事件が発生した当時、メディアは、殺害された女子大生の私生活がいかに派手だったかということを書き立てました。それを見ていて、「これは何かウラがある」と直感したのです。そこで番組プロデューサーを説得し、この事件を番組で検証することにしました。ところが、ご両親はメディアに対して強い被害感情を持ち、取材には一切応じようとしなかった。僕は、60年間磨いてきた人間力で勝負するしかないと思い、筆ペンで20枚ほどの手紙を何度も書き、取材交渉を続けました。それで、ようやくご両親に取材をさせてもらうことができたのです。

人間力というのは人間性そのものだから、それを口で説明するのは難しい。ただ、ノウハウのようなものはあります。たとえば取材をする時には、いきなり本題に入らない。「どちらの出身ですか。○○ですか。それはいいところですね」という具合に、ひとしきり雑談で盛り上がる。そこでスパッと本題に入ると、相手も口が滑らかになっているから、勢いでポロッと喋ってしまう。要するに、雑談力が大事なんです。ただし、そのためにはインタビュアーが豊富な話題を持っていなければならない。多くの本を読み、多くの映画を見、多くの恋愛をし、多くの悲しみを経験し、様々な人生経験を持っていないと雑談はできないんです。だから優等生ではダメなんですね、記者というのは。

死ぬ覚悟さえあれば何も怖くない

鳥越さんが突然、病魔に襲われたのは、65歳の時のことだ。大腸がんを発症し、両肺と肝臓に転移。4度の手術を経験した。だが、驚異的な体力と精神力で病を乗り越え、72歳でホノルルマラソンに挑戦。見事完走し、世間に勇気を与えたことは記憶に新しい。

僕の活力の源は「好奇心」です。好奇心さえあれば、常に心はみずみずしく、見た目の若さも保つことができる。今でも、野球から普天間基地問題、何にでも興味がありますよ。

年齢には「実年齢」「体内年齢」「心の年齢」の3つがあるんです。僕の実年齢は75歳、体組成計によれば体内年齢は48歳。心の年齢は測る手段がないから、18歳と勝手に決めています。

もう1つの活力の源は「ポジティブシンキング」。物事をプラスに考えると免疫力が上がり、病気にも勝つことができます。よく「ストレス解消法は何ですか」と聞かれますが、僕はストレスを感じたことがないんですよ。

なぜなら、僕の生き方は「努力をしない」「いい加減に生きる」「なんとかなるだろう」の3つに集約されるからです。「努力をしない」というのは、人に強制されて何かをするのではなく、好奇心の赴くまま、自分が好きなことをとことんやること。「いい加減に生きる」というのは、熱くもなく冷たくもなく、ちょうどいい湯加減で生きるということ。つまりは中庸を保ち、ここ一番というところで集中力を発揮することです。「なんとかなるだろう」というのは、「死ぬこと以外はなんとかなる」と考えることです。死ぬ覚悟さえ決めていれば、何も怖いことはない。それが僕の生き方なんです。

Profile

とりごえ しゅんたろう
1940年福岡県生まれ。1965年京都大学文学部史学科卒業後、毎日新聞社に入社。大阪社会部、東京社会部、テヘラン特派員、『サンデー毎日』編集長などを経て、1989年に退職し、テレビ朝日系列『ザ・スクープ』のキャスターに就任。2001年「桶川ストーカー殺人事件」報道に対して「日本記者クラブ賞」受賞。2004年『ザ・スクープスペシャル~警察の裏金』に対して「ギャラクシー賞報道活動部門大賞」受賞。現在“ニュースの職人”として、キャスターやコメンテーターとして活躍中。
『鳥越俊太郎 仕事の美学 君は人生を戦い抜く覚悟ができているか?』(日本実業出版社)

\ このページをシェアする /

健診に関するご不明点やご相談がございましたら、お気軽にお問い合わせください。

資料請求・お問い合わせフォーム・
電話番号等はこちら