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No.120 August.2015

偉大な祖父に追いつきたくて 悩み苦しみ、歩いてきた

歌舞伎役者

中村吉右衛門さん

圧倒的なスケールと厚みのある演技、
そして様々な色合いを持つ台詞回しの巧さで、観客を酔わせる。
まさに今、円熟の魅力を放つ二代目中村吉右衛門さん。
名優の一家という恵まれた環境に生まれながら、
「いくつもの試練を乗り越えてきた」という、その人生をふりかえります。


八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)の次男として生まれた時から、母方の祖父にあたる初代中村吉右衛門の養子となり跡を継ぐことが決まっていた。歌舞伎役者としてこの上なく恵まれた環境とDNAを受け継いだとはいえ、その生い立ちは複雑で、そしてあまりにも運命的だった。

戦後間もない1948年、4歳の時、僕は中村萬之助という名前で初舞台を踏むことになりました。その直前に、母方の祖父母である初代吉右衛門の家に連れていかれ、祖母にこう言われたのです。「あんたは今日からうちの子になるんだよ」と。ことあるごとに初代(祖父)の養子になることは言われていましたが、それがどれだけ大変なことなのか、実はほとんど分かっていませんでした。

初舞台の口上で、初代が「この子を養子に迎えて跡を継がせる」と述べ、私は戸籍上も藤間久信という名前から祖父の波野姓に変わりました。小学校の名札の苗字も波野となり、「兄貴と苗字が違うんだなあ」と、養子になったことを実感したものです。

小学校の頃は、授業が終わると、忙しい父母に代わって世話をしてくれていたばあやに連れられて、三味線や踊りなどの稽古、舞台のある日は楽屋へ通い、そして週末は祖父の家で過ごすという日々でした。世間では名優といわれていた初代でしたが、当時の僕にとってはかわいがってくれるお祖父ちゃん。僕が嫌がらずに舞台に出れば、お小遣いやご褒美をくれました。その頃から初代の芸の非凡さが分かるような賢い子だったら、今頃、もっと素晴らしい役者になっていたでしょうね。

役者をやめようと悩み、父の背中に諭される

子役として頭角を現し始めていた10歳の時、偉大なる祖父を亡くし、吉右衛門さんを取り巻く環境は大きく変わる。その7年後、実父と兄(現・九代目松本幸四郎)とともに、松竹から東宝へと移籍することになった。

兄貴は、現代劇やミュージカルでさっそく才能を発揮していました。でも僕はミュージカルに向いておらず、歌舞伎に打ちこみたいと思っていた。あるディレクターから「あなたは周りと合わせることをしないね」と言われたこともありました。現代劇の役者としては異質だったのでしょうね。

自分はいずれ二代目吉右衛門を継がなくてはならないのに、いつまでたっても芽が出ない。そんなふがいない自分が嫌でした。次第に、僕は役者としても求められていない、家族としても必要とされていないんだという思いがつのってきましてね。「もう役者をやめよう」と思ったのです。早稲田大学の仏文科の学生でもあったので、文学者か小説家になろうとまで考えていました。

ある日とうとう、父に「フランスへ行って小説家になりたい」と、つまりは「役者をやめたい」と言ってしまったのです。怒るかと思いきや、父はふっと背をむけて「何にでもなっちゃいな」と言い放っただけでした。

その時初めて、松本幸四郎家と初代亡き後の中村吉右衛門家の両方を、一人で背負っていた父の姿を見た思いがしました。父の気持ちにやっと思いが至ったのです。「自分はやはり歌舞伎役者として、初代のために、そして父のためにも吉右衛門という名を継いでいかなくてはならない。自分は必要とされているのだ」と。目の覚める思いがしました。

初代の偉大さに気づき芸を継ぐ困難に直面

22歳で二代目として中村吉右衛門を襲名。その4年後、初代の十七回忌の追善興行に、一風変わった口上の一幕が設けられた。帝国劇場のスクリーンに初代の「熊谷陣屋」を収録した映画を上映し、その後に吉右衛門さんが口上を述べ、そして初代の当たり役である「熊谷陣屋」の熊谷直実をつとめるという趣向だった。その芸、そして役者ぶりは否応なく、初代と比べられることになる。

〝比べようもなかった〟というのが本当のところです。初代がすごい役者であることは聞いていましたが、あろうことか、そういう昔話には尾ひれのつくものだと、あまり信じていなかった。ですが、その映画を見て、やっとそれが真実だと分かった(笑)。今まで見てきた役者さんたちの熊谷直実とは全然違う。そう父に言いましたら、「あの映像は初代の晩年の熊谷だ。体も弱ってきていた。最盛期はあんなものではなかったぞ」と。改めて僕は悟りました。どれだけ大変な名前を継いでしまったのだろうと。

歌舞伎役者の場合、何代も続く古い名跡には、同じように代々続いているご贔屓さんたちが大勢いらっしゃいます。逆に初代のように、たった一代で人気と名声を築いた場合、その反動で反対勢力も強いんですね。つまりは「つぶそう」とする勢力です。僕もその影響を少なからず受けました。これは襲名する前のことですが、「中村吉右衛門という名前は〝止め名〟にした方がいいのではないか」と記事に書かれたこともありました。初代限りの名前として、今後誰にも継がさない方がいいと。

いやあショックでしたね。僕は何のために役者になったのかと。ええ、ちょっぴりグレましたよ。連日、飲み歩いたり(笑)。

鍛錬と修業を重ねて、円熟の境地へ向かう

このまま東宝にいては、中村吉右衛門という名前を生かすことができないと、父と兄を残して東宝から松竹へ戻ることを決意した。だが松竹へ復帰するも、現場では「新参者」として扱われる。同じ年頃の御曹司たちが次々と相応の役に挑戦していく一方で、脇役や年代に合わない老け役をつとめなければならないこともあった。しかし吉右衛門さんは腐らずに稽古し、先輩たちの舞台を見て、役者としての修業をひたすら地道に積み重ねていった。

歌舞伎役者の場合、20代までは役者としての基本を吸収するのに一生懸命で、身に付いたものを舞台で表現するところまでいかないものです。必要なことが一通り身に付くのが30代でしょうか。さらに人生でも様々な経験を重ね、40を過ぎた頃から、吸収したことを舞台で表現できるようになってくるんですね。

例えば芝居の最中に、お客様がふっと立って出て行かれるのが舞台から見えたとします。20代なら「なぜオレのここ一番という時に出ていくんだ!」と怒り心頭。若気の至りです(笑)。ですが、芸にも気持ちにも余裕が出てくると、「仕事がお忙しいんだろうなあ」なんて都合よく思えるようになってくるんですよ。

僕自身も、心身ともに鍛えられ、少しはお客様から評価していただくようになってきたのは、やはり40を過ぎてからだったと思います。

初代の芸と人生を伝えたい 10年目を迎える「秀山祭」

還暦を迎えるにあたり、自身の使命について改めて考えたという吉右衛門さん。初代の芸を次の世代の役者たちに、そして観客の記憶に伝えていかなければならない。そこで初代ゆかりの演目を上演し、その芸と精神を継承するための興行を思い立つ。初代の俳号から、この興行は「秀山祭」と名付けられ第一回から好評を博した。

おかげさまでこの「秀山祭」も今年で10年目。これで少しは名前を継いだ責任を果たせたとホッとしております。

初代の書き抜き(役者一人一人に用意された手書きの台詞帖)が、初代の初舞台のものからほぼすべて、我が家に残っております。戦時中は防空壕に入れていたので焼けずにすみました。初代ゆかりの役をつとめるたびにこの書き抜きを見直すのですが、これが実にためになるんですね。10代の頃の書き抜きには、どういう動きをしたか、どのように台詞を言ったのか、非常に細かく朱が入っている。逆に晩年に近づくにつれ、書き込みが少なくなっていくんです。芝居の勉強になるのと同時に、そんなところからも一人の役者の人生を垣間見ることができ、興味深いですね。

最後に、歌舞伎をご覧になったことのない方に紹介を。歌舞伎では特別に難しいことをやっているわけではないんです。耳慣れない言葉があるかもしれませんが、親子や夫婦の情、主従の立場といった現代の私たちにも重なるような内容が少なくありません。そして、役者とお客様が同じ空間で一つの物語を共有できるのがお芝居の醍醐味です。そのレベルにまで持っていくのが役者の仕事。お客様は理屈抜きで、そこから何かを感じていただければ、これこそ役者冥利に尽きます。

Profile

なかむら・きちえもん
屋号 播磨屋
1944年東京都出身。八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)の次男として生まれ、母方の祖父の初代吉右衛門の養子となる。1948年6月東京劇場で中村萬之助を名のり初舞台。1966年10月帝国劇場で二代目中村吉右衛門を襲名。2002年日本藝術院会員、2011年重要無形文化財(人間国宝)に認定される。

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